京菓子辞典
ジャンル別 歴史 | ||
浅路飴
あさぢあめ |
柔らかい白求肥を小さく拍子木型に切り、白胡麻の煎ったもので全部をまぶしたもの。 |
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いかもち
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米の粉の団子皮で濾餡を包み、饅頭型に作り上部へ黄色い糯米の染飯を散らし蒸しあげたもの。
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飾菓子
かざりがし |
糖芸菓子ともいう。美しい姿をした、芸術品かと思われる細工菓子。食べられるものかと目を見張るできばえのもので、花鳥風月、静物などを実物のように写実的に作ってある。 飾り菓子の歴史は、元禄、享保ごろからはじまり、元治、慶応のころには諸大名が京都に上り、献上菓子が多くなってきたため、この細工菓子が好んで使われるようになった。 はじめは有職菓子にも見られる、大型の打物や種菓子などに絵の具で彩色をしていた。 それに金平糖や有平糖が盛合わせられていた。 明治に第三回内国勧業博覧会に京の飾菓子として世に出て、またパリ第二回万博に出品され世界の目にこの技術が知られるに至った。 |
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菓匠会 かしょうかい |
江戸中期に菓子業者が増加してきたので安永4年に上菓子仲間が組織されたが、その後、天災におそわれ、12年ほど仲間制度が中止された。享和3年に上菓子仲間は248戸に幕府から公認を得て制限された。
明治維新後に営業自由が認められ、明治17年に菓子税を課せられるにおよんで、菓子屋が濫造したので、明治19年に同業組合が設立。明治30年京都固有の上菓子によって「菓匠会」が生まれた。 この会は現在でも京菓子発展につくし、年々研究発表を行なっている。 |
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唐菓子 からがし |
遣唐使が唐朝から持ち帰ったものの中に「からくだもの」があった。わが国の神饌菓子、和菓子にも今もその風が伝わっている。 唐菓子とは、モチ米やウルチ米または麦をこねあげたり、大豆・小豆に塩を少し入れ、油で揚げたものが多い。『嬉遊笑覧』には、 古へ菓子は木の実の他には「からくだもの」とて漢土の寒具 の類を学びて造れるもの種々あり寒食は冬至より百五日を三 月の節とす即晴明なり、漢土は旧例にて、此日火を焚ざれば、 前日より種々の菓子を調べ置て食ふなり、あたたかなる食物 なければこれを寒食といふ、寒具は、その備への食物なり。 と書かれている。寒具は必ずしも菓子類のみではないが、漢名の菓子のように扱われている。 八種の唐菓子は、梅枝(ばいし)・桃枝(とうし)・かっこ・桂心(けいしん)・てんせい・ひちら・ついし・団喜(だんき)である。皆うるの粉に甘葛(あまずら)などの甘い味を加えつくね油あげにする。 他に、ぶと・まがり・結果(かくなわ)・捻頭(むきかた)・粉熟(ふずく)・索餅(さくへい)・こんとん・へいたん・ほうとん・魚形(ぎょけい)・椿餅(つばいもち)・へいこう・こめ・煎餅(いりもち)の十四種がある。 これは平安朝のはじめまでに輸入したものであった。 この中には、今の州浜によく似ているものなどがある。 その他にも、唐菓子は、日本の菓子に大きな影響を及ぼし、朝廷の儀式や饗宴の際に使われた記録が残っている。 |
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嘉祥菓子 かしょうがし |
嘉定ともいう。嘉定通宝十六文で食物(主に菓子)を買って食べると、その家に福があり、疫病を除くといわれる”嘉祥食の行事”というのがあり、室町時代末期から江戸時代を通じて、毎年6月16日に行われていた。 (仁明天皇が承和15年6月16日を吉日として嘉祥という年号に改元した。その際、供物を以って祭を行い、悪疫を祓うにはじまるという故事にちなんで嘉定通宝が鋳造されたのである) 宮中では7種、幕府では16種の菓子を用い、民間でも金十六文や米一升六合で物を買って食べたようである。古くは団子餅、穀物類をいづれも十六種使ったが、時代につれて変化し菓子となった。 使われた菓子は古風なものが多く幕府では、饅頭、羊羹、鶉餅、志んこ、あこや、よりみづ、金団、いただき、白団子、干麩、熨火餅などに各桧葉を敷いてその上に菓子が盛られた。 虎屋の記録によると宮中では、公卿へ納める品は駿河半紙に包み水引け、一般は紙包のまま売ったとある。 明治の頃には素土器皿に桧葉を敷き七種菓子をのせ、大奉書で菱形に包み、紅白の水引をかけたものであった。 一、いかもち 一、桔梗餅 一、豊岡の里 一、武蔵野 一、源氏まぜ 一、浅路飴 一、味噌松風 |
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供饌菓子 ぐせんがし |
神仏混淆の思想が盛んだった江戸時代には、お供えも共通したものが多かったが、明治以降神社と仏閣が分離してからは、お供えも独自のものに変化していった。 仏教伝来(552)とともに、いろいろ形どった供菓子類が多く伝わり、現在でも百種類ほどある。 各宗派ともに、大祭・大法要・御忌など重大な儀式には、豪華な供饌を供えた。 |
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華束 けそく |
仏前に菓果を献ずる器具の一つであるが、華足や華飾ともいって、後には供物もケソクと言うようになった。仏壇に供える餅を「おけそくさん」という人もいる。 |
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献上菓子 けんじょうがし |
→ 上菓子 |
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源氏まぜ げんじまぜ |
湿粉製幡形で平家、源氏の幡を図案化して作ったものである。 |
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上菓子 じょうがし |
今に伝わる宮中の年中行事には数多く菓子の基礎がある。
室町時代には、禁裡や幕府などに当時の最も秀でた原料と技術に拠って調製した菓子を献上していた。 京都の菓匠達が「献上菓子」「御用菓子」と称していたものが、いつの間にか略されて「上菓子」と呼ばれるようになった。 上菓子は、足利時代に糖菓がつくられて以来できた名である。 もともと砂糖は薬品として薬種屋が扱っていた。 御所羊羹・御所菓子・御所落雁などがある。 献上菓子は、蒸菓子と干菓子を組合わせた上菓子である。器もぜいたくを尽くしたもので、通櫃でも梨地、螺鈿、描金などを用い、盛菓子籠物は中身の菓子よりも何倍かの装飾を投じたものらしい。 |
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雑菓子 ざつがし |
駄菓子ともいう。京都の上菓子司が使った菓子の呼び名。他に蒸菓子、干菓子がある。昔は、雑菓子は一般的な菓子で、白砂糖は使用していなかった。 |
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神饌菓子 しんせんがし |
神に供える菓子のこと。生饌と熟饌とに分けられ、実・枝葉・根などを生のままか火を通して、みずみずしく豊かなものが供えられる。 また、さげた供物を分けることを「直会(なおらい)」といって、これを戴くとご利益があるという。神饌菓子は、神の宿る品とも考えられている。 神饌の中央に松や花枝をさす風習は、神を神饌に迎え入れる作法である。 |
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糖芸菓子 とうげいがし |
→ 飾菓子 |
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田道守 たじまもり |
菓祖。大極殿や御所の紫宸殿に橘の木が植えられているが、橘には田道守の伝説がある。 |
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豊岡の里 とよおかのさと |
落雁製の淡紅色で方形をしており、上部を少し盛り上げた型の餡入りである。 |
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南蛮菓子 なんばんがし |
日本の菓子の歴史で唐菓子とともに大きな変化をもたらしたのが「南蛮菓子」の渡来である。
ポルトガル人が日本に来たのは応永十九(1412)年であった。元亀二(1571)年には貿易を目的として、深江という今の長崎にオランダ船がやってきた。そして全国のうちでここ一港だけ貿易が許され、オランダ人に限って往復をしていた。 オランダ人とイギリス人は紅毛、ポルトガル人とスペイン人を南蛮と言っていたが、フィリピン諸島から東南アジアを経て渡来したから、全般的に南蛮菓子というようになった。 『長崎夜話草』には、 ハルテ、ケジアト、カステイラ、ボール、花ボール、 コンペイト、アルヘル、カルメル、ヲベリアス、パアスリ、 ヒリヨウス、ヲブダウス、タマゴソウメン、ビスカウト、パン とある。 『太閤記』にも …下戸にはカスティラ・ボウス・カルメヒラ・アルヘイ糖・ コンペイ糖などをもてなし我宗門に引入る事 尤もふかかり しなり と記されている。永禄十二(1569)年4月に宣教師ルイス・フロイスが二条城に織田信長を訪れ、ビロードの帽子や鏡などとともに有平糖や金平糖のフラスコなどを贈ったと伝えられている。 南蛮菓子の到来は、砂糖の大量輸入と砂糖菓子伝来といえるが、すぐに一般化したのではなく、しばらくは特殊階級のもののようであった。 |
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味噌松風 みそまつかぜ |
薄く長方形に切ったもので、両面を鉄板で唐板のように焼いたものである。 |
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武蔵野 むさしの |
湿粉と蒸羊羹でできており、武蔵野の秋の景色をあらわしている。 |
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紋菓 もんか |
御紋菓。神社・仏閣に詣でた時にいただける。打物の落雁で各所の御紋を型どっている。打物といわずに押物の代名詞となっている。 京都の菓子屋にはこの御紋菓の型は数多くもっているが、それと同時に御出入りであるともいえる。 形としては、大きな一つ型もあり、五つほどの数のある型もある。 材料も寒梅粉の打物だけでなく、餡入りのものもある。 |
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餅 しもち |
『和名抄』に毛知比とある。「もちい」「もちいい」などといったらしい。望月のもちであるともいう。満月のことを望月という意味も含んでモチとなった。 |
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有職菓子 ゆうそくがし |
有職故実にちなんだ菓子のことで京都で発達した。 有職菓子といえば、京都の上菓子司の独舞台のようなものである。禁中との関係もあり、朝廷や公家の礼式、古典に明るいその道の家元が京都にいて、その方達が菓子司に教えたのである。 |
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祇園祭 ぎおんまつり |
京都の夏の風物詩。 |
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京菓子 きょうがし |
京菓子には目に美しいという感じをさせる「飾菓子」と風味に重点をおく「茶菓子」がある。 茶の菓子は、家元が京都にいる関係で、四百年来茶の湯とともにはぐくまれた。茶菓子が生まれた当初は主菓子と干菓子の区別がなくどれも点心などと呼ばれ、焼き栗、干柿、昆布などがその役目を果たしていた。 一般的に現在のような菓子になってきたのは明治以降のことで、茶の湯によって四季折々の自然の美しさを映して、十二ヶ月の季節の銘も整えられ、ますます洗練された。 季語や年中行事に因んだ数多い茶菓子は、歳時記にして見ても興味深いものである。 |
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節分 せつぶん |
二月は、鬼やらい、なやらいなどともいって疫鬼を追い払う節分の儀式ではじまる。節分の夜に柊の枝に鰯の頭をつけて戸口にさし、豆を撒く。
その夜、京都の吉田神社には、全国の神々が集まるといわれ、毎年大勢の参拝者が詰めかける。一夜明ければ、陰暦二十四気の一つである立春が訪れ、この日から暦の上では春になるのであるが、実際にはまだまだ肌寒い。 昔から、立春大吉などの符や聯(れん)を門々に張ったり掛けたりして、悪疫を除く風習がある。 |
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梅 うめ |
梅花は中国の四君子の一つで、如月(二月)の代名詞であり、梅見月や梅月などの異名があるほどで、ほころびた花をめでて梅見の一服も味わいのある風景である。 |
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餅菓子 もちがし |
餅菓子は、糯(もち)粉・粳(うるち)粉・小麦粉・葛粉・そば粉・片栗粉と材料を変えていろいろの原料をもって、蒸したり焼いたりしてつくるものである。
そしてそれらには大別して二種類のものになる。 その一つは餅を皮として小豆餡に砂糖を入れて包んだものと、餅を芯にして餡で包んだ、いわゆる餡ころ餅である。 これらは京都市内でも多く見られる昔の茶店風の店に名物として残るものに多く、むろん東海道をはじめとして、各街道のみやげものに今ものこるものが多い。 はじめはむろん塩味であった。 これら餅菓子として発展してきたのも、やはり他の菓子のように、茶の点心として珍重がられ「蒸しもの」として餅菓子類が記録されている。 寛永の『料理物語』や、文化の『餅菓子即席増補手製集』などには、牛蒡餅・雪餅(せっぺい)・杉原餅・枸杞餅・御所様餅、近衛様餅などがまず見られるが、これらのものは現在の菓子から見ればむしろ料理に近かった。 時代とともに食膳の料理から離れて茶菓子となり、上菓子ともなった。 しかし京都から江戸へ行く餅菓子は江戸の庶民的なものとなり大衆的な菓子としての代表菓子となった。 餅には適度の弾力があって甘さがある。 餅の原料である糯米は粳米より消化もよく、栄養価の高いことを考えるとき、餅が好まれたのは当然といえる。 餅は餅屋というように、関西では菓子と餅は分業して作られる。 餅の種類にはお供えや、椿餅、鳥の子餅、ひし餅、大福餅、と沢山ある。 餅菓子は、刻々と変化するものであって、タイミングをはずすと堅くなったり味も変わるが、焼いたり、蒸したりするとまた食べられるものでもある。 |
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糯米 もちごめ |
餅の原料となる。 |
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糯粉 もちこ |
⇒ 糯米 |
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粳米 うるちまい |
⇒ 粳米 |
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絵馬 えま |
絵馬は神社、仏閣などに祈願または報謝をするために、馬やその他のものを描いて奉納する扁額の一種で、小絵馬は庶民の個人祈願に発したものである。 |
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雛祭り ひなまつり |
その昔、上巳(じょうし)の日に形代(かたしろ)を作って、祓いを行っていたことが雛祭りに変わって、宮中や貴族の遊びになっていた。それが女子の行事、五節句として、今日のように盛んになったのは徳川時代以降である。 現在でも神社によっては、紙で作った立雛形式の「かたしろ」を授与しているところがあるが、これはみそぎが形式化されたものである。 「かたしろ」に名前や年を書いて、身を撫でて穢れや禍をそれに移すので「撫物(なでもの)」とも呼ばれる。 |
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花見 はなみ |
桜の花を愛でること。 洛南醍醐の花見は、豊太閤の昔から今も残る催しである。 |
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都をどり みやこおどり |
京の春は、都をどりではなやかに幕が開ける。 明治五(1872)年に開催された博覧会の余興から始まり、百年余りの歴史がある。 舞台で、若い舞妓の「都をどりは、よういやさーーー」の声は、耳をはなれない。 |
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きんとん |
きんとんは茶菓子の姿を一番よくあらわしている。 花ならば花がズバリその形になりきっていてはいけない茶菓子にあって、きんとんは、ぼんやりとした形で四季の風情が表現できる菓子なのである。 きんとんは、平安朝前期に中国から留学僧が土産として持ち帰った唐菓子の中の果餅十四種の「こんとん(食+昆)飩」に似たものである。 「こんとん」は小麦粉を練って丸め、中に砂糖、飴などを入れ、温めて食べるので「温飩」ともいわれる。日本では「金団」の名が見られる。 「きんとんは、栗の餅の粉にて作る、色黄なるゆえに金団というなり」(橘飩の転化とも言われる) 「またすいとんとも云ふ夏は水にひたすゆえなり」と信長の古茶会記にも使われている。 大徳寺きんとんの名はもっとも古いが、禅僧が留学の手覚えで作り出したもので「槐記」に温めて出すと書いてある。 これは「貞丈雑記」には「一、きんとんと云ふは粟の粉にてちひさく団子のようにしてその中へ砂糖をいれたるなり」 とあって現在のものでなく団子であった。はじめは甘葛で味をつけ、形も径2cmほどの大きさとある。 宝暦にも粟の代りにもち粉と粳粉を糖蜜で練り、梔子(くちなし)で黄色に染めたものや、また内に餡を包み、丸くして小角豆の粉をつけるといってやはり黄金色の金団である。 文政のころに紫きんとんというのができた。これは求肥を切って餡で包み、その上に上餡の裏ごししたそぼろをつけていた。 これが現在のきんとんのはじめの姿で、今も伝統的に作る店もある。 きんとんは生ものであるから客に味よく差し出すためにはタイミングが必要である。毎月の主菓子にきんとんの姿を見ないときはない。古くから多くの好み菓子も生まれて、親しまれた茶菓子である。 |
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団子 だんご |
団子ははじめ「団喜」といわれ、唐菓子の中にあった。 他のものと違い「餡入り餅」の油揚で今の団子より饅頭のようであった。また「歓喜団」ともいっているが、これは京都の菓子の中に「清浄御団」としてその姿が見られる。 『類聚往来』に団粉・ダンゴなどとだんごの語源もいろいろあり、いしいしといわれるところもある。 団子として初めて世に出たのは正徳元(1711)年。同年の夏に甲州八日市市場の不動尊が両国回向院で開帳されたとき、両国橋の東詰の泥工(さくはん)松屋三左衛門がこれを製して販売したのである。 三左衛門は越後屋の出であるので、その当時は「越後団子」といっていたという。 団子は餅の加工品の一つで、糯米か粳米かあるいは両方を合わせて作り、また玉蜀黍(きび)・小麦などの粉でも作り、食べるときには赤あずき、ささげ、ごま、大豆粉、砂糖などを用いるものである。 安永、天明の頃には江戸で有名な団子といえば『江戸喰物重宝記』にみられる「米つき団子」「笹団子」「更科団子」「おかめ団子」「吉野団子」などいずれもその時代を代表している団子である。 また、団子には全国で行われている年中行事などに取り上げて使うものがある。京都の団子にも、御所の菓子、天の川や下鴨のみたらし、祇園団子、宇治の茶団子などがある。 江戸時代から神社の大祭・例祭の日に社務所や境内の売店が厄除けの目的などで供饌と同じものを売るようになった。 団子には二つの系統がある。米粉団子の内か外かに餡を入れるか、まぶすもの、もう一つは米粉を蒸して餅として調味料を塗って焼くものもある。 京都下鴨のみたらしは後者である。 名物の団子も明治以降になってくると製菓技術の発達とともに材料に米粉ばかりでなく、もち米、粟の粉も用いられ、またモロコシ、キビ、小麦粉などの穀類の粉まで使うようになった。 |
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金平糖 こんぺいとう |
幕末のころから明治末期にかけて、南蛮菓子が全盛時代であった。金平糖は永く貯蔵ができ「振出し」など、春の野点にふさわしく美しい菓子である。 金平糖の語源はイスパニア語のコンフェイトス(Confeitos)である。 最初に伝来したのは、南蛮菓子の一つとして紅毛人より長崎に伝えられた時であり、コンペイトウの日本名も金平糖、金米糖、金餅糖、渾平糖、糖花などといっている。 永禄十二(1569)年に二条城に金平糖が渡来している。 また、京都相国寺鹿苑院の鳳林承章の日記にも寛永二十(1643)年四月十三日の条に、肥後国から上洛した人がみやげとして肥後の焼物の中にコンペイトウを入れて贈ったと伝えられている。 西の方からしだいに東に移り、元禄の頃には大阪でも作られている。 井原西鶴が貞享五(1688)年に、『日本永代蔵』の「廻り遠きは時計細工」の項に金平糖をつくって金を儲けた話を取り扱っている。 ケシの種が芯となっていて、その実をセンターにして砂糖蜜をふりかけるのであるが、その操作は、たらいのような平底の大きい(つのかけ釜ともいう)を適度の傾斜にささえて回転させ、 下から絶えず加熱しながらその中にセンターを入れ砂糖蜜をふりかけ、乾燥するときの凝固力を上手に利用しているのである。 ただし、釜の傾斜が悪かったり、回転がはやすぎたり遅すぎたりすると、角がうまくでず、単なる丸い砂糖団子になるおそれがある。難しい菓子なのである。 |
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月見 つきみ |
嵯峨大沢の池では、中秋の名月になると優雅な大宮人の龍頭の船を浮かべ、月見の宴が開かれる。 月見台にはススキ、萩などの七草の花を活け、月見団子を供えて琴の音がかなでられる。 この風習は中国から入り、平安時代初期の宮中観月記録がのこっている。京都には観月の名所も多い。 |
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重陽の節供 ちょうようのせっく |
旧九月九日、九は陽の数で、これを重ねるので重陽の節供という。
中国に端を発したもので、わが国では平安朝から行われており、宮廷では非常に重んじられる行事である。これが民家では栗めしをたいて栗の節句と呼んだ。旧暦にすれば菊の盛りであるから菊の節句とも称され、菊花の宴の催もある。 この月は異名を菊月、菊咲月、菊開月ともいう。しかし、夜長月であるから一般に長月ともいわれている。 |
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参考文献:『茶菓子の話』(淡交社)、『カラー 京都の菓子』(淡交社)。すべて鈴木宗康先生著